三毛猫の独り言

さくらの記事はこれきりと書いたけど、さくらのことを書こうと思う。

今新居が建っている場所の前の家には犬がいる。
新居の土地には離れがあって私はそこで寝泊りしていたので
ここの犬とも仲良し(さくらはすごく仲が悪かったんだよね(^^;)。

ここ3、4日、昼間新居に行っていたのでここの犬ともちょっと遊んできた。
ここの犬、名前は「蘭(らん)」。
柴犬混じりの雑種で、さくらを小さくしたような犬。

久し振りに犬に触った。サイズは小さいけど毛の感じとかさくらとおんなじ。
犬の匂いも久し振り。乾いた土のような、いい匂いじゃないんだけど懐かしいような匂い。

その夜はさくらを思って夜1人で大泣きしてしまった。
でも直後の思いとは違ってきているような気がする。
さくらが死んだ直後は後悔や自責の念が強くて本当につらかった。
今もその気持ちはあるけど、それよりもさくらがいないことが悲しかった。

さくらが死んだ後、私が仕事で看取った人、1名。
そしてこの世に生を受けて、でもちょっと元気がなくてNICUに入ってきた新しい命、その数、十数名。
昨日は4月に生まれた弟のところの姪っ子が遊びに来ていた。
私を見てニコッと笑って、私はとろけてしまった。
さくらがいないことは悲しいのに。

生と死のコントラスト。命って?死ぬって?
当たり前のことなんだけど、かけがえがないからそれぞれにいとおしいんだよね。
さくらが死んで悲しくても、姪っ子への愛情は減らない。

亡くなった患者さんの息子さんが言ってた。
「おやじはもう引退してるし会社は自分達がついでいるので混乱はないんですが
この人がいないと求心力というか、そんなものがなくなってしまいます…。」

今私が急に死んだとして、職場は困らない。私と同じことができる代わりはいるから。
でも旦那にとっては私の代わりは私でないと駄目だろう。
新しい奥さんをもらったとしても、その人はその人で大事で、私をなくした悲しみはなくなるわけではないと思う。
そうか、そういうことなんだなあ。

新しい犬を飼うとか、猫を今以上に可愛がるとか、そんなんでは癒されるわけがない。
私にとってすごく大事な存在だった。代わりはいない。
でも猫も大事。新しく犬を飼えばそのコも大事になるだろう。
例えさくらが生き返ってもそのコの代わりにはならないだろう。

看護学校では親子の愛情は相互作用で育まれる、と習った。
親子でなくてもそうだ。反応のない対象に愛情は湧きにくい。
だからミナミヌマエビが死んだ時より、餌の時間に寄ってくる魚が死んだ時の方が悲しい。
1日で死んだ魚より、長いこと飼った魚が死ぬのが悲しい。
魚が死ぬより、10年一緒に暮らしていつも私にすり寄ってくるさくらが死んだ事の方が悲しい。

キューブラーロスの「死ぬ瞬間―死とその過程について」では死を告げられた者が
「死への5段階」否認・孤立→怒り→取引→抑鬱→受容というステップを踏んでいくという
内容が記されているけれど、これは自分の死に限ったことではないと思う。

最初は思った。
「さくらが死ぬわけない。」

看病している時は思った。
「なんでこんなに悪くなったの?!」
「財産が全部なくなってもいいからさくらに助かって欲しい。」
「なんでこんなことになったんだろう。私はなにもできない。」

さくらが死んだ後は思った。
「さくらが死んだのは私のせいだ。」
「さくらを返して欲しい。」

今はこう思う。
「さくらがいなくて悲しい。」

どうやら抑鬱→受容の過程なのだろうか…。

こうやってなんやら順序もなにもないような、元は何を考えてたっけ?みたいな思考を繰り返しながら
大事なものをなくした悲しみを受け入れていくんだ。
お父さんの時もそうだった。今思い出したけど。
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by mikeneko_sakura | 2005-11-29 15:10 | その他色々


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